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2004年12月20日

ニートへのプロセス?

世の中にはまともに働いて生活している人がいて、苦しみながら働いている人もいて、結局働いていない人もいる。そりゃ当然人によって同じ行動をしても感じ方は違うわけで、耐性の高い人、低い人、感受性の高い人、低い人、体力のある人、ない人、いろいろな人がいるのだからそんな世の中になってある意味当たり前のような気がする。

しかしそれで終わってしまっては身も蓋もないし、じゃあ自分は働かない人になっちゃいます、ってのはちと困る。個人としてはどのような対策、行動をとっていけばいいのかということだ。

ふつう、日本に生まれ育った人間というのは躾や学校教育、人間関係などを通じて大人になるまでに鍛えられる。面倒くさがらずに行動し、義務を果たし、制約の中で楽しみながら生活を出来るようになっていく。

これが、自分の場合もそうなのかも知れないが、最近はそれを学ぶことなく大人になってしまい、働くこと、人と接すること、辛い状況に耐えること、欲求を我慢することなどを十分に身につけずにその時期を終えてしまう人が出てくる。そうなったら、なかなか矯正することも難しく、自己責任の範囲で堕落していかざるを得ない。

それに当人が気がついているならば、つまり自分のことなのだが、どうすればいいのか。なまじ能力がないわけではないから、その部分が自分の欠陥であると認識するのは逆に困難なのだろうし、それを克服するという行動を起こすことこそまさに最も苦手とする部分なのであるから、なかなか堕落から抜け出せない。

政治家の1年生はその後の役職の激務に耐えられるように、徹夜マージャンなどでそれはそれは鍛えられるそうだが、そういう風な辛さを自分に課していったりすることによって自分も鍛えることが出来るのだろうか。

「今日は辛いから寝てしまおう」という休日、それは、その日だけのことではない。その一日が将来の全ての日、それがあと何日あるのかわからないが、その膨大な時間へ繋がる一つの要素だということを肝に銘じなくてはならないだろう。

鬱というのは将来を想像する能力に欠ける人がなりやすいものだという。つまり、その日の行動が将来へと繋がっているということがはっきりと認識できないので、その日だけの楽を求めてしまうのだ。理性の中では、それではいけないとわかっているので、妥協点として「明日から頑張る」という結論になってしまう。

能力としては、それが自分にはできると思っている。しかし、そのときになると自分はそうは動いてはくれない。自分の心、体を鍛えていくためには、今日、そして今、何をすべきかということが大切ということだろう。

しかし、ここまで理屈を考えないと何も出来ない自分って何だろう。

投稿者 so-go : 2004年12月20日 18:16

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コメント

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投稿者 Buy Ambien : 2010年02月17日 18:28

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