参照記事
「文科省の指導要領なんか無視していい」 橋下市長、英語教育批判
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/626508/
私は基本的には橋下氏のドラスティックな考え方に対しては肯定的、好意的であるということを念頭においた上での話であることをご承知おきいただきたいのだが、文部科学省が悪かったという矛先の向け方や学習指導要領が悪いというのはちょっと違うのではないかと思える。
これは私が社会人として、また海外での仕事や生活を経て考えていることだが、日本の中学校や高校の英語の教育課程の内容自体はそれなりにちゃんとしていて、あれほどコンパクトな内容であるにも関わらず、きちんと身につければあとはそれぞれの現場に必要な部分を少し補足すれば世界中でコミュニケーションがとれる程度の内容にはなっており、問題は教員の質であるとか現場のやり方のようにしか思えない。
また、日本人は話すことが苦手であっても読み書きは大丈夫ということが多い。自分自身も電話や会議は苦手だったがeメールでコミュニケーションをとることが多かったし、自分よりよほど会話が流暢なタイ人やマレーシア人が難しいという英語の文書などは自分のほうが読めることもあった。
また日本は翻訳によって海外の高度な情報を得ることで文化や技術を取り込んできた。会話が出来ることに特化した教育は会話が出来る人材を育てるだろうが、英語の文献を正確に読み取ることができるような翻訳型の人材はそれでは得られない部分でもある。
極論すれば、文部科学省の方針を無視してとにかく英語が話せる人材をというのは、まさにその翻訳型の人材を見出す教育を捨てることであり、逆に日本の国力にとってあまり良くないかも知れないということも考える必要があると思う。
日本の英語教育に必要なのはやはり教員の質をどう高めていくかという人事制度の部分をよく考えなくてはならないのではないだろうか。それは府立学校であれば府の責任であるし市立学校であれば市の責任となる。学習指導要領にあくまでも則った上で改革を行ったほうが良いような気がする。